リクでおますが
前回の続きのよ~な、そでもナイよ~な。。
興味ない方には 申し訳ありません、前回記事の 続きとなるのでありますが。
ウチとこ父方 本家の、その「ルーツ」ってなりますルと、『清和源氏』であるのだと。。。
しかし・・この 清和源氏には 多くの謎 、ってか、ぶっちゃけ『謎だらけの系図』なのでもアリましてネ。。。
『存在そのものからして疑義がアル』ってゆ~学説すら有って。。
だいたい 日本人の家系の祖を尋ねると、清和源氏と答えるケースが一番多いンですナ はい。
ぶっちゃけ…先祖に「清和源氏」出てきたら 疑った方がイイかも
清和源氏とは、第56代天皇清和天皇を祖とした一族であり、直系の子孫として最も有名な人物は源頼朝で。
後に征夷大将軍となり、幕府を起こした足利尊氏、徳川家康はいずれも源氏出身を名のっていたと。(ただし、徳川家康は自称源氏であり、源氏の一族から系図を買い、適当に作ったというのが定説である。)源氏出身でなければ、将軍になれない、すなわち幕府を起こすことができないとも言われていてたそうで、(平氏出身の北条氏、自称平氏の織田信長、摂関家に養子になった豊臣秀吉らは実力がありながら将軍になっていない。)
また、中国最後の王朝である清は清和天皇から取ったという説も伝わってて(さすがにコレは・・・)成吉思汗イコール源義経であり、その一族の元王朝の末裔と名のっていた愛親覚羅一族(清の皇帝一族)も清和天皇の末裔ということになる。清の第6代皇帝乾隆帝(清の黄金時代の皇帝)が、「朕の姓は源義経の裔なり。その先は清和に出ず。故に国を清と号す。」と記したって、例の 日本3大珍説の1つとしてカウントされてますのは ご存知の通り。
っと・・・このように清和源氏は名門中の名門でありますルが、その祖についてはきわめて謎が多く、それらを解明すると…どの結論においても・・【 清和源氏の祖は清和天皇であるということは、真っ赤な嘘 】ってなるのでありまして ええ。
(1)清和天皇-陽成夫皇-元平親王-経基王-源満仲-頼信
(2)清和天皇-貞純親王-経基王-源満仲-頼信-頼義-義家-義親-為義 -義朝-頼朝
(1)は源氏の始祖頼信が1046年に記したものであり、清和源氏というよりは、陽成源氏と言った方が適してまししネ。
(2)は源氏の大成者頼朝が1182年に記したものであり、こちらの系図が一般的に知られている清和源氏のもので、江戸時代までは(1)の系図は知られてなく、(2)のみが知られておりまして、1900年に(1)の系図が暴露され、2つの系図が存在し、果たしてどちらが正しいのかということになったと。
清和天皇、貞純親王、経基王の生没年から判断してこの3人が親子であるのは、不自然であることから、(1)の系図に対しての支持が強まっているようで。
しかしでス、なぜ陽成源氏を清和源氏にすり変える必要があったのだろうか?? って まずもっての「大疑問」が・・・。
陽成天皇は素行が悪く、途中で退位させられた天皇であった。ライバルであった平氏が英明であり桓武天皇を始祖にしていることから、源氏側は系図上の天皇を1代繰り上げて、英明であったと言われる清和天皇を始祖とし、陽成天皇からは切り離したと思われる。
この操作は源氏と平氏の争いが始まったあたり(1100年以降)に行われたと推測できる。頼信が発表したころは、源氏は貴族の家来に過ぎず、そこまで配慮する必要はなかったから陽成源氏でかまわなかったと考えられる。
また、もう1つの謎として、経基王と源満仲がはたして本当の親子だったかどうかにおおいに疑問が残る。比較的信憑性が高い『尊卑分派』によると、経基王は 917年生まれで、満仲は 912年生まれである。子が父より5年も早く生まれている。このことか経基王は源満仲の実の父ではなく、源満仲以降の源氏は清和源氏説、陽成源氏説にかかわらず、源氏は天皇ないしは経基王の血脈をひいていないことになる。
ぶっちゃけ…史実そのものが曖昧なんだから、家系図それの信憑性は??
おそらく・・・、やり手であった満仲が天皇の孫にあたる年下の経基王に接近して、その血筋の価値に目をつけて、養子になったものと思われ、この前後に、経基王が源氏賜姓となり、満仲も源氏姓となったはずである。この2人は摂関家の政敵を陥れるために、密告をすることによって地位を得た。満仲の三男であった頼信は武士として基礎を作り頼義、義家によって源氏の東国における地位を不動のものとした。これ以降源氏が繁栄し、名門中の名門となるが、その出身は明らかでないことは確かだとも。
っと・・・ココの場には似合わない(笑)コ難しい事 ホザきまスたが、1言で言い切るってなら・・・
【 家系図…特に 地位と名誉の有る家系図ほど 信じるには値しない 】ってそれに尽きましてン ええ。。。
ンな、「家系」で悦に入るって、ンなさもしき生き物ぢゃにゃいのだ!
実際問題…『ウチの家系には 皇族の血が入ってる』ってケースは、数え出したなら『キリが無い』のだそ~~で。。。
ウチとこの 京都の本家なんかも「まさにそれ!」、日本書紀や古事記の時代の事象とかには ゼンゼン絡んですらいない・・・完全なる『後付け』。。
要は「制度主義」それの弊害とも考えられます。当時、朝廷や京都の公家、天皇家筋から『嫁を貰う』ってなりますとネ・・・
マッタクもっての「馬の骨」でしかない ンな人間が、財力や 持ってる軍事リョクなんかで お姫を奪い去るってのはチトばかり、外聞が良くないから、
『皇族と婚姻をして当然の家系』・・・早いハナシ、それをば デッチあげる必要があったわけわけヨ うむうむ。。。
さいわいってか、その真偽にすら疑問があるけど、武家社会よりの「源氏」や「平家」って、皇族の外郭にあたります、一種のブランドがあったもんで、
ややこしいのは 全部「そっち」で、コレさぁ・・・現代なら『戸籍ロンダリング』そのものだゼ? うううむ(--;
っと、かように 古代から中世の 日本社会の「戸籍その由来」ってのには、良く言えば「鷹揚」…ワルく云やあ「チョ~いい加減」なんだワ はい。
ンな訳で、その 信用ならない家系図・・・ぶっちゃけ「それを」根拠に、我がルーツを探るってのも どうなんだ?? っとは思うのでありますが・・・
たとえ 信用するに問題あろうとも…
でも・・冒険小説にも近しい 楽しみも有りましてン♪ 遺された 宝島の地図ってのが たいていはガセであり インチキで。
だけんど、その 予めインチキって判ってル インチキ地図の中に、『真実へと導く《鍵を読み解く》』それがあって♪
好奇心と冒険心、ヒトにはそれ必要だ♪
ウチとこの 先祖ですが、「甲斐の 武田信玄」それの家臣であった時代があると・・・。
生え抜きの家臣ではございませんようで、要は 滋賀の彦根から やや東の地区を 縄張りにしていた地方豪族だったようで、
200名ぐらいの 自家の手勢を連れて、武田家に召し抱えられたようで、持ち込みの兵隊としても、200名は中隊規模でっからネ、ペーペーの足軽では無く、「食客」的な身分だったとも考えられます ええ。
ドンパチ「出入り」で雇われた用心棒的勢力ね
ほんで、いよいよの「核心」・・・皇室の筋より 嫁を娶ったって、それへと入るのでありますが・・・。
制度として「臣籍降下」って言ったそうで。、皇族の人が姓を与えられて家臣の身分に下り、皇族ではなくなる、というものです はい。
どうも 背景には、当時の 応仁の乱あたりの時代、「天皇家の経済的 落魄ぶり」それが大きく起因してたようでもあって。。。
わたいはそのへん知識薄いのでっけど、なんか 相当に逼迫していたらしいって。
なんせが、「誰も 貢物持ってこない」・・・当時の 京都の街ってのは、今で例えるなら、中東のイラク、市街戦がドンパチ行われてます、国内でもイチバンの危険地帯でもあったゆえ、巻き込まれちゃ怖いから、ダレも上洛しないもんで『さてさて 困った・・・』
じゃあ??・・・どぼちて? 天皇家としての 生活費や固定費をば捻出したか??
要は・・・「人身売買」ッス ええ。。テメエとこで産まれた、特に『娘を』…地方の カネ持ってル大名とかへ嫁がせては、その「結納代」で喰ってたと・・・。
上記しました臣籍降下って制度で、『どぉ~せ 消えちゃう筋だからイイやぁ♪』っとばかり・・(--;一時期 めったやたらに 実質『売り飛ばした』と・・・
だがココでも疑問・・・ぶっちゃけ『そんなに子供の数が本当に居たンか?』ってのと、『女児ばかりが生まれてきてルようだけど それホンマかいナ??』って。。。
ね?ココまで書くと お読みの みなちゃまにもお判りだろうっって思います。『野郎…《集め》やがったナ 売り飛ばす娘を』ってことで。。。
ってコレ…『闇オークション』やんか・・(><)
なんせが 今のよな 血液検査もDNA検査も存在しない時代・・・たとえ 落ちぶれ果てようとも、天皇家は国内で最大の《家元であり 鑑定家である》って大きな事実・・・
送り出す天皇家が「ワシとこの娘ぢゃ!」って言い張るなら、ぶっちゃけ「まんま通っちゃう」って ンなロクデモないとしか呼べない時代(^^;
ンで、その「ひとりの娘」が、武田信玄の側室の1人として 送り出されたらしい。
賢明な信玄は、おそらくは 天皇家側のサル芝居…このインチキのカラクリ、チャンと見抜いていたって思いますナ。ホントに天皇の血を受け継いだ娘ではなかんべえ っと。
でも、《もしかして 本当の娘である確率も捨てきれない》・・・そんだもんで 信玄は、側室で嫁いできた娘さんを あえて、側室扱いとせずに、「養女」って立場にしたのですと(古文書によると)
ぶっちゃけ・・イッペン以上は 手ぇ出して いひいひ♪な行為したかもしんないス(笑)(^^;でも欲しいのは 天皇家の権威であり、愛情ではござんせんしネ。
かくも「権威」とは、ヒトをばクルわせるのか?
で 結果ど~なるか??・・・チト許せん所業ですが…1人の人間の存在としては《要らないコ》ですから・・家臣らとか呼びつけた信玄公『よしっ!天皇家の血筋の養女、オメエに嫁にヤルわ喜べ♪』人権もフェミニズムもあったモンじゃないハナシに @@;
リーマン社会の、社長・会長のお下がり愛人嫁にするって…
で・・・出所は 地方の豪族(イコールで夜盗集団)の頭目に過ぎない我が先祖、ヒョンな事から、天皇家のお姫様を妻に娶るって 相成ったと お立合い。
せめて…『愛は存在してた』って、そう思いたい。。。
武田家には 息子 7名 「武田太郎義信→自害」「武田勝頼」「海野信親→出家(お坊さんになる)」「武田信之→夭逝(ようせい;幼くして死んでしまうこと)」「仁科盛信→戦死」「葛山信貞→殺害」「武田信清→米沢武田家へ転出」って・・
旧態の「白兵戦」から、近代「銃火器戦」へと移行した伝説的戦闘
ウチとこ先祖ですが、信玄公 入滅後、後継いだ 勝頼に付き合い、天正3年5月21日(1575年6月29日)有名な合戦『長篠の戦』に参戦し、多分…戦死したか?《首》が挙がらないまま、要は「生死不明」っとなり、当時の以後の記録から抹消されたのでありますが。
本来、武家の妻なら 夫の後を追うところですが…
この時点でバラけてしまう・・《筈だったが》・・・奥方である 自称天皇家の血筋の娘は、産まれていた子供、男子2名を連れて《チャッカリ逃げていた》って(^^;さすが我が先祖♪
ある意味『逃げてくれたから』今リクが居ます(^^;
どうも・・嫁に出される際の約束、《いよいよヤバくなったら、京都へ帰ってこい》って、それを頼りに 京都へとやっとこ 辿り着いたようなんですが・・・
ぶっちゃけ・・・公家の世界の『身勝手極まる 朝令暮改』・・・その約束は反故とされ・・《臣籍降下で もはやアンタはウチとこの家系の者やおへん》って・・門の中へ入れてもくれずに・・(--;
しかぁ~しっっ!! ぶっちゃけ 子供抱えた『母は強し』だ♪ 奥方は『ンな物言いで通ると思うかアホっっ!!』って、
そだそだ!子供抱えてンだ 頑張れおっかさん♪
完全に 開き直り、門の前にて、「ハンスト」敢行したらしいって いひいひ♪ 人通りも多い京の市中、道行くヒトらは、『あのヒト、元は天皇はんとこの姫サンやて。なんぞモメとるらしぃ~デ』ってウワサとなり、
なによりも体裁と世間体を重んじる朝廷、さすがに放置も出来んって、奥方に『先の 応仁の乱 で、一面焼け野原になった場所、そこに再復興の公共事業の計画アリますから、アンタの住まいも造ったるワ。そこに住めばよろしい』っと 権利勝ち取ったと♪
戦国時代の始まりは応仁の乱、終わりは織田信長が足利義昭を京から放逐した元亀4年(1573年)ということになり、豊臣秀吉により全国統一が完成した1590年まで、そして 徳川家康が幕府を開き、豊臣家を滅ぼした1615年までが、日本におけます『戦国時代』それなんですが。
戦国の世も終わり、いよいよ…ウチとこ 父方の本家の 京都市中での歴史が正式に始まるわけわけんのでアリますルが・・・。
今のリク総本家、基盤の完成に至ったと。。。
で・・・次に出てくるってのが・・・ぶっちゃけ…『ナニをヤって喰ってたんだ??』って疑問で。。。
スクラップ&ビルドで、まんまと手にした♪「住処」それはイイですが、当たり前でっけど、『なんかしなくちゃ生きてけない・・・』。
ほんでネ、遺されてます文献等によるなら・・・今の京の場所で暮らし始めた先祖は、正直…ドチラの側からのアプローチなのか?それ判然としないのですけど、
当時の時代で 日本有数の文化人にして才人【 本阿弥光悦 】と知り合ったのだと 遺されてます文献は「語る」。。。
本阿弥光悦 「日本三大書家」当代きっての文化人で
本阿弥光悦 氏の後押しあったらしく、先祖は 戦乱も収まり、どんどんと復興を見せ始めた京の街で、『美術・骨董屋を展開』しましたようで。
でだ・・・いよいよのヤバいとも呼べます部分をばブチかまさせていただくのですがネ・・・
骨董屋をば展開し、京都の街で 職を得た我が先祖・・・コレが案外と…『エゲつないショーバイ』も していたよ~でもあり。。。
骨董屋ってのは、ウマいこと「当たるなら」、案外と効率も良く 奉公人を抱える必要も無い、ノンキで気楽な商売ッス ええ。
ナンたって、扱う「モノが」生鮮品とか食物とかでもない、抱えてますストックも 腐ったりする心配が無い♪
店開けてても、絶えずお客様がいらっしゃいますってな感じでは無くて、仕事してるよか、暇をコイてる時間が圧倒的に長い、勤労意欲が限りなく薄い(笑)基本 遊び人の 本家には「うってつけ♪」の仕事で。
だけんど・・1つ モノの売買が成立するってならば、ぶっちゃけ『利幅がデカい』。。仮に 300マン円で売れるモノだとするならば、実質…その半分、150マンは 儲けですから ええ。
1年を通して、その価格帯のモノとかが、「年に4つぐらい」売れますなら、あとは遊んで、寝て暮らせるって ンな仕事。。。
戦乱の世を過ぎて、元禄時代頃には、京都の裕福な商家や 寺院とかに、けっこ~な数の骨董とか売って、財を築いたらしい 家ですが。
でも・・時代が 天保の終わり頃へと差し掛かると、時代の趨勢とは無関係にも思えます 骨董屋にも「受難の時代」ってのに遭遇し・・・
文献によると、当時の時代風潮が 「骨董どころやおまへんがナ」って風に、美術工芸品とかの市場が 一挙に「萎んだ」と。
唐の白磁の陶器やら、壺だの花瓶だのってのがゼンゼン売れ なくなり・・・その替わりとして訪れたのが『 刀剣のブーム 』。。。
だもんで、先祖も、食っていくため、そっちの領域へと方針を切り替えた様なのですが ええ。。。
徳川の治世となって、鎌倉時代末期までの 所謂「古刀」、それらは急に価値が無くなり 二束三文と化していたそうなんでおますが、
武士層に留まらず、商人も百姓層も 時代のキナ臭い雰囲気を敏感にキャッチして、再び『良い 銘刀を!』って、そのニーズが高まって。
ただ・・そうなっても、刀剣類の場合、今の時代と違い 『ドコに行けば ダレがその銘刀持ってるか?』なんて情報がゼンゼン掴めない 掴みようが無い時代・・・
でも、それに「かかわらず」・・ウチとこの骨董屋では、「備州長船祐定」だの、「正宗入道」やら、「福岡一文字」とかって、マニア垂涎のアイテムっを よくよく売っていたのですと。。。
中でも、コレも古文書信じる限りでは、幕末期にかけては、新選組の近藤勇で有名「虎徹」、『虎徹欲しいンなら あっこヤ!』って、かなりに儲けなはった気配が。。。
しかし・・・ウチとこ先祖は、骨董界でも、殊 刀剣類に関しては あくまで後発組だった筈で・・・「どぼちて??」銘刀 虎徹なんぞをゲット出来るルートを発掘したのか?? てんでそれが判りません はい。
古来より、『虎徹を見かけたなら ニセモノと思え』ってナ言葉が有りましたように、
なんっか・・・ウチとこ先祖も【 理解した上でニセモノ売ってた 】って、ンな気配が感じられてならない うむうむ(--;
一般的な日本語では贋作(がんさく)と言いますが、鑑賞会や鑑定会など刀の集まりで使われる言葉では「偽物(ぎぶつ)」と言いましてネ、刀剣の なんちゃって品は。
ただ・・コレの構造にも なっかなか、コ難しいルールってのか?取り決め事が存在してまして刀剣には・・・
「写し と 贋作+レプリカ」という線引きになりまス はい。本物であるものと本物ではないもの。。。
「写し」の山姥切国広は「九州宮崎県出身の国広が作りました」と 刀身部分の茎に書いてあって、実際に国広が作ったものなののでアリますが、「本物であるもの」として 正々堂々 流通するって、訳わからん現象が。。。
贋作が多いことで有名な虎徹で言うと、値札に「長曽祢虎徹」と書いてあるもののうち、江戸時代に生きていた長曽祢興里という人が作ったものだけが「本物であるもの」。それ以外は全て「本物ではないもの」です。楽天市場やAmazonで売っている「虎徹の模擬刀」が本物でないことは言うまでもありません。
出たっ!ココでも『刻印頼み』ブランド主義でおます(--;
先祖を庇う気持ちはありませんが、ぶっちゃけ 先祖が【ドコまで?】、偽物の販売と斡旋にかかわっていたのかは 判りませんままで。。。
ったらネ・・・本家の蔵の中に遺る 膨大な資料、その中からリクちゃまですが、チトばっか…『シャレになんないモノ』見っけちゃいましてン ええ。。。
本家先祖の 当時の当主と、鍛冶平(細田直光)と言う御仁との間で往復した「書簡」。。。
「それ」ですが、ぶっちゃけ かなり無造作に ドサっと置いてありました。
鍛 今でも、幕末の刀鍛冶として名声は有ります
おそらくは、『後世の子孫が読んだって この意味は判らんやろ♪』って、多寡をくくってた感があります ええ。
事実 ダレも気付かれなかった・・・。ですが、わたいなんぞは単なるアホアホに過ぎませんが(^^;
ただ・・・習い事の1つとして『抜刀術(居合道)』をばカジっておりまして はい。それの お稽古の一環として、
まさか、末裔のアホが、「禁断の秘密」嗅ぎつけるとは…
鍛冶平(細田直光)の その名前には記憶があったとゆ~1つの「発見」。
ジツのとこ・・・この 鍛冶平(細田直光)ってヒトですが・・ほぼほぼ『贋作専門の刀鍛冶職人』なのでして!! @@;
虎徹の贋作は、巧妙にも思えて、でも案外と 大胆とゆ~か、やっつけ仕事的な大胆さがアリましたよ~でネ・・・
「手口」はホント大胆・・・『形状的問題として 虎徹と非常に似た刀剣を持ってくる』そこから始まってて・・・
幕末期に応用されたのは、虎徹とカタチがよく似てます「源 清磨」(コレも凡刀ではない、かなりの銘刀なんですが)室町後期の刀。
向かって左が「虎徹」 右が「清麿」 ま、日本刀だから、
正直…『ドレも似てる』って土台が」アルのでおますが。。。
で・・・よく聞いてけれヤ・・・スゲえぞお!贋作の手口・・・刀剣の 茎の部分へ…『虎徹 押し型』って、
予め、「フォント」ですわナ、字体をコピった【 型打ち付けて 】@@; 『はい~~ 虎徹いっちょあがりぃ~♪』って(笑)(^^;
あのネ・・・俄かには 信じられないでしょ~が、これってマジなんス・・・この 偽物の銘を切る専門の鍛冶がいたくらい。
「新選組血風録」によれば、近藤勇の虎徹も・・・
価格(30両)からしてバッタ物である可能性が高いと…
なんかサ・・・ナニも刀剣にかかわらないス・・ぶっちゃけ この世に存在する『すべてのブランド品』・・それの信憑性と、ブランド追い求める行為、そのモチベーション自体がアホらしくなっちゃいますよネ~~(><)
要するに・・『真贋見極める能力 ダレも持ってない』。。偽造職人と骨董屋がグルになって…そららしき「鑑定書」着せるってなら、殆どがそれで「通っちゃう」って世界。。。
とにかく 先祖が、この 鍛なにがしと、文書のやり取りが在ったって事は・・・単なる時候の挨拶だとは思えなくて・・・
遺ってます 江戸時代の手紙、なんせが古いし、達筆な草書体なもんで、全文を読み理解は出来てないのでありますが、時は 文久2年から3年にかけてなのでありますルが・・
ぶっちゃけ 当時の当主先祖も、鍛なにがしも いっちゃん活動が密だった時代に当たる時期でおます。
『先日にての貴殿の力作、予期したでござる以上に 依頼者は欣喜雀躍を示し、思うておる以上に 大商ゐとなり申したでござる旨、改めて 深く貴殿に感謝の意 申し候と共に、その技量の程 感嘆するでござる思ゐにてござりんする。』
要は・・・『やぁ~♪こないだのアンタの仕事、思った以上にクライアント喜んじゃってサ~♪予想した以上に高値で売れたゼ いひいひ♪あんがとねぃ♪アンタはえらいっっ!』って(笑)(^^;
時代劇の「越後屋」けっして笑えない【我が先祖】(--;
・・・あの世とやらで・・きっと先祖は『ヤバっ!!バレちゃったか 子孫に・・(蒼)』ぶっちゃけそれなんぢゃネ??(--;
わたいの『お金ダイスキ♪』はもしかして遺伝なのか?(^^;
しかし・・・つくづく・・『ヒトって弱い』って、そう思います はい。。。
果たしての価値がアルかも判然としない「権威」それの価値にひたすら拘り・・・
でもって…ぶっちゃけ、『その価値と権威すらを 他人の評価に丸投げする しかない』。。。
所詮『鑑定』とは、他人が下す権威への盲従って云えます はい
ね?? なんか…哀れとゆ~か、いじましく ビクビクしながら一生を終わるしかない「無残な生き物」であるとも。。。
案外と ロクデモねぇわなぁ・・ウチとこの ご先祖も(^^; はい わたいは そんな家系の末裔でおます とほほのほぉ~~
やっぱよぉ…人間は最終的に『裸一貫』だゼって♪