リクであります
本日は 昨今 惜しくも鬼籍へと入られた 漫画家「さくらももこ」サン筆による エッセイ集「もものかんづめ」から、
読者らに多くの論議を呼び 問題作であり、代表作だとも伝えられる 【 メルヘン爺 】を扱わせていただきます。
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祖父が死んだのは私が高二の時である。
祖父は全くろくでもないジジィであった。ズルくてイジワルで怠け者で、嫁イビリはするし、母も私も姉も散々な目に遭った。
実在の「友蔵」は 好々爺では無かった。。。
そんな祖父のXデーは、五月の爽やかな土曜の夜に突然訪れた。
夜中十二時頃、祖母が「ちょっと来とくんな、ジィさんが息してないよ」と台所から呼んでいる。
私と父と母はビックリして祖父の部屋に行った。
なるほど、祖父は息をしておらず、あんぐり口を開けたまま動かなかった。
あまりのバカ面に、私も父も母も、力が抜けたままなんとなく笑った。
まもなく医者が来て、祖父の屍をひと目見るなり「これは大往生ですね」と言った。
死因は幸福の条件の中でも最も大切な要素のひとつである”老衰”であった。
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・・・ぶっちゃけ、事のノッケからこの有様(^^;ボロカスでおます。
人間の尊厳な死の場面をとらまえて、このように《笑ってしまう》っとゆ~ だけんどマルでテメエで《見てきたかのように》…自然と湧き上って来るこの可笑しみが 一瞬で 読み手をガシっと捕らえます 。
知的で上品なユーモアに盛られた、さくらももこ著『もものかんづめ』の一章なのでありますが、
中でもこの 今回の元ネタ「メルヘン翁」が断然面白い。”死”という本来悲しむべき出来事なのにかかわらず、
コレほど冷静に正面から見据え、その上で思いっきし笑い転げています ええ。
そこにはある意味、人間の真実が見え隠れするような不思議な現象があると云えますまいか??
「全くろくでもないジジィであった」と揶揄するが、その裏には実はちゃんと持ち合わせた家族愛と、
『もうこれきり逢えないのだよね・・・』といった 無言の家族愛と、一抹の寂しさが同居した、そんなココロの裏返しでもあるってわたいとしては思えます訳で。。。
・・・だけんど…リアルの実際は、ンな《キレイ事で済まねぇヨっ!!》って「それ」なんでショね・・・
凡百のエッセイとは完全に一線を画する さくらももこサンのエッセイは、《死んだジイさんなんかスキじゃなかった》って大前提を隠さず 堂々とブチかましてル訳で。
「傷つく事ダケ 得意な連中」にゃ反吐が出ますわナ(--;
事実として この1編は、集英社連載中に 読者よりかなりの数…『さくらサンって、あんなにも酷い残酷な文章を書くヒトだとは思ってもみなかった!もう2度と読まない!』って…かなりボルテージ高い 抗議・」ブーイングを博した『問題の一篇』であったそうで。。。
ですが・・・その少なくない否定の意見に対して 作者の さくらももこサンは、
《そうですか…としかと受け止めます。でも、ご理解いただけないのは仕方がないとしか申し上げられません》と堂々の表明。
《わたしは回りに起きた事をディフォルメしてバカバカしく伝えることはありが、それを美化すて描く能力が無いのである》とも♪
いやな気分になった方すみません…って述べるものの、発信した自分の作品・意見は けっして撤回も謝罪もしない・・・それこそが芸術家の態度と姿勢であろうと♪
ケチつけたって、テメエがさくらももこにゃ成れやせんのだ
・・・さくらサン アンタ 荒くれだゼ♪♪
・・・ってか、ココにですネ…わたいは【 発言者・表現者としての確たる《覚悟》 】それをば強烈に感じます訳で、
アンチの意見に阿らないお見事な気骨だと思いまス
個人として密かに思っている・・・『もしかして、《さくらももこ》の名は、マンガではなく、《エッセイストとしての技量・才能》で 後世に語り継がれるのではなかろうか??』って考えます その根拠でしてネ。
モチロン 出世作「ちびまる子ちゃん」も 大傑作であるのはテッパンなのでありますが、この「メルヘン爺」は、さくらサンが持つ 天賦の才に、《天才故の狂気がバクハツした》プラスして・・・
人間の《死》とは本来 きわめてダークでもあり、時に陰惨なモノでもあり、同時に同じ家屋で暮らす 身内の人間には、せつな過ぎたりもする。けども・・・
コレが…歴史上の出来事で、鎌倉時代に 元寇が来襲し、神風も吹いた結果、敵の軍勢を見事に討ち果たした♪ ってな記述となるなら・・・
なんか無性に、晴れ晴れと誇らしげな気持ちになりません?? おそらく当時の現場海域では、ハンパない数の遺体・死体がウジャウジャ漂って、凄惨な図であったろうなのは必然・・・
『当人の悲劇とは、角度を替えた 他人にとっては最高の喜劇である』との言葉もあるように、
喜劇の基本中の基本、《バナナの皮に滑って転ぶ紳士》、あるヒトにとっての悲劇が、第三者にとっては笑いの原本となる。
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夜中三時頃、続々と親戚が集まってきた。
こんな大騒ぎにもかかわらず、姉は自室で熟睡している事を思い出したので、私は慌てて起こしに行った。
「ジィさんが死んだよ」と私が言ったとたん、姉はバッタのように飛び起きた。
「うそっ」と言いつつ、その目は期待と興奮で光輝いていた。
私は姉の期待をますます高める効果を狙い、「いい? ジィさんの死に顔は、それはそれは面白いよ。口をパカッと開けちゃってさ、ムンクの叫びだよあれは。
でもね、決して笑っちゃダメだよ、なんつったって死んだんだからね、どんなに可笑しくても笑っちゃダメ」としつこく忠告した。
姉は恐る恐る祖父の部屋のドアを開け、祖父の顔をチラリと見るなり転がるようにして台所の隅でうずくまり、コオロギのように笑い始めた。
死に損ないのゴキブリのような姉を台所に残し、私は祖父の部屋へ観察に行った。
誰も泣いている人はいない。ここまで惜しまれずに死ねるというのも、なかなかどうしてできない事である。
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・・・ココまで読みますと 改めて・・・さくらサンは きわめて冷徹な《観察者としての視点》を持ち合わせたスゴいヒトだよなあ・・・って 感嘆するばかりで はい。
さくらサンの姉が 死んでいるジイさんのカオを見て テメエが死ぬって感じで笑い崩れる…ってのは、確実に!!・・・祖父の死を知らせる さくらサンが、
『いい?ゼッタイに笑っちゃダメだよ?』って(^^;予めの 予備知識としての「前説」をばブチかましたせいです うむうむ。。。
リクめも ちびまる子ちゃんのブラックな作風から 作者である さくらももこサン自体が「ぐう聖(ぐうの音も出ないほどの聖人)」ではないと思っていましたが、
実在しない「架空の一家団欒」だから描けただろう あの設定
家族を「嫌い」だということをサラッと書く、その当時の社会的な《建て前》をひっくり返す、ある種のタブーをやってのけたことにショックを受けますよね やっぱ。。。
さくらももこサンは後に「家族だからって無理に好きになる必要はない」というようなコメントを残していますが、
ぶっちゃけ リクめもこの意見に賛成です。それはテメエとしての 恋愛だったり あるいはケッコン・・・
異なるDNA同士だからこその友愛
思うンですよネ~、恋人やパートナーを「愛せる」ってのは・・・【 同じく暮らす 家族では無いから 】だっって。
それに、同じ家に暮らす家族だからって、自動的に「愛情が」伴うとは限りませんやんか??
「骨壺争い」「遺産紛糾」身内がゆえに陥る争そい事
血がつながっている筈のジイさんバアさんから 1つも愛情を受けてなかったせいで、かれらが死んでも さして哀しいともナンも思わない・・・
世の中には こういったケースは星の数な筈。血のつながりとはトキとして 面倒くさかったりも。。。
なんか…思うのでありますが、社会全体は「家族の愛情」ってのを 無意識的にワザと勘違いしてるンでは?? って、
誰しもが 盲目的に信じ込んでる家族への愛情の その大半は・・・ジツのところ愛情ってよりも、【 愛着 】であり・・・
それであるゆえ、エラいシッパイしても 許してやるって気になるし、助けてやろうって気にもなるのだと。。。
…オノレで痛い思いして産んだ 母親の感情はベツだと思いますが、ひとつ家にイッショに暮らす 家族、そのワルい面とかも含め 全て把握してる、近親s相姦がいかんとぢゃにゃくて、【こんなヤツ!ダレがココロから愛せるかっ!!】って気持ちであるのが ある意味「人間の正体」ではないかしらん・・・
たとえ家族じゃない立場であったとしても、イエ【家族ではナイからこそ!】、赤の他人でしかない恋人・パートナーを真に愛すことが出来て、同時にパートナーの家族をも同じく 愛すことができる それが「愛情」だろうと ええ。
【 ヒトの死 】ってのは、本来からして マヌケであり、とてもみっともないモノだとも思います ええ。なんせが 魂の「電池切れ」ですからネ。
その 電池切れ はテメエではどもならん・・・ボコチンいじってよぉが、トイレで用足してル際でも 生き物ですから《死》は唐突に訪れる・・・。
妹から 祖父の死を知らされた 姉さんが 死んでいるジイさんのカオ見て 思わず笑い転げるって それにしてもが、
断言できます はい、【 ゼッタイに悪意は微塵も無い 】ジイさんの「死に顔」ってのが、前説で知らされてた「それ」よりも、
姉としての 予測を 遥かに上まる《超マヌケなモノ》だったからこその、ごくごくナチュラルなヒトとしての反応だったのだと。
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ジィさんは、死ぬ数年前からボケていたのだが、そのボケ方がどうも怪しい。
知らんふりして私の貯金箱から金を盗んだり、風呂をのぞこうとしたり、
好物のおかずが出たりすると一度食べたにもかかわらず、「食べてない!」とトボケて食べようとしたりするのだ。
私は、あれは絶対わざとボケたフリをしていると踏んでいた。
老人問題の〝ボケ〟まで逆手にとって巧みに利用するとは、なんたる不良翁であろうか。
そんなジジィが残した物は、汚いメガネとますます汚い入歯だけであった。
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・・・この世は過酷で、どうしようもなく救いがたいものです はい。。。
ですからさくらももこサンは フィクションのなかで理想の祖父像…【 友蔵 】を描いたのであり、それは《現実の暮らしの中になんか要るわけがない》ってのを 充分に意識した上での、理想の偶像の具現化。。。
実在しない架空の存在ゆえ尊い友蔵おじいさん
我々視聴者はフジテレビの日曜夕方にくり広げられるファンタジーという、《創作である安心感》無意識にそれを感じて安らぎを得るのでしょう。
さくらサンにとって、現実に存在してた実の祖父はマジで大嫌いであり、近親憎悪的に最大に嫌悪していた その対象だったんだろうって思います ええ。
ある意味で云うなら…実際はスゲぇイヤなジイさんだった【からこそ!】マンガでの「友蔵」というキャラクターを創造出来たのだとは言えますまいか??
『あの友蔵おじいさんのモデルの自分の祖父をあんな酷い文章書くなんて』と、連載当時拒否反応起こした読者、でもかれらは気付いてないと思う・・・
人間なんてのは、誰しもが 見えない部分では まことに醜悪な面はそれぞれで抱えています。わたいもそうですし みなちゃまもワリぃけんど 同じであろうと。
さくらサンが マンガでの「友蔵」を いかにもの好々爺として描いたっていうのも・・・おそらくは、さくらサンはココロの中で…
『あ~あ…ウチの実在のジイさんも…ホンのチョっとだけ努力していたなら、マンガっでの友蔵と同様に 皆から愛されたろうにヨ・・』というヒネクレた「供養の一環」なのでは?? と。
本当は真逆であったらしい現実の友蔵に対し ココロの隅で 密かに 線香をあげていた行為なんでは??』と。
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「ジィさんの顔、口を閉じてやらなきゃ、まずいなァ」と誰かが言った。
私は、そのままでも面白いから問題ないと思ったのだが、そういうわけにもいかないらしい。
「白いさらしの布で、ジィさんの頭からアゴにかけて巻きたいのだが、布はあるか」と親類の男が尋ねるので、母と祖母は必死で探したのだが見つからなかった。
深夜なので買いにも行けず、モタモタしているうちに死後硬直が始まってしまいそうだったので、やむをえずありあわせの手ぬぐいで代用する事になった。
この手ぬぐい、町内の盆踊り大会で配られた物であり、豆しぼりに『祭』と赤い字で印刷されていた。
ジィさんは、祭の豆しぼりでほっかむりされ、めでたいんだかめでたくないんだか、さっぱりわからぬいでたちで、おとなしく安置されていた。祖母は、「ジィさんは、いつでも祭だよ」と力なく呟いた。
私が姉に「ジィさんのくちびるから、祭ばやしが聴こえるねェ」と言ったら、彼女はまた台所のゴキブリになってしまった。
ジイさんは棺桶の中に横たわる姿 それは体をS字にくねらせて、頬に手を重ねるジジィの姿は、周囲をいっぱいの菊の花にも囲まれて、
それはちょうど 【 夢見るメルヘン少女 】のようであった。
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・・・っと、ぶっちゃけ 身も蓋もございません(笑)(^^; そら おねいさんも笑うわナぁ。。。
しっかし(プロですから当たり前ですが)女性のヒトで、ココまで・・・ブラックなテイスト表現を畏れず 書き殴れるヒトって かなり稀有ですよネ?
感心するのは…さくらサンご自身が、ジイさんとの生前の思い出、センチなメランコリーに 1ミリも流れてない事!
読み手への サービス精神の発揮でしょうが、今さっき亡くなったジイさんを【 あくまで笑いをとるが為の《道具》 】って割り切り 徹底的にモノ扱い(^^;
コレは 古典落語のダークな名作「らくだ」や「黄金餅」にも どこか匹敵するテイストがあふれている気がします 《言葉の落語》なんですネ ええ。
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葬儀は お寺へと移り、和尚の読経と木魚に合わせて まだちいさな従妹が、『ぼ~ずが びょう~ぶに じょ~ずに ぼ~ずの えをかいた』と歌いだし・・・
祖母があわててクチをふさいだが、私のココロの中では 延々と その歌がリフレインされていたのだった。
そして私は いよいよ葬式の最後 ハイライトで読まれた 弔辞のすごさに目を見張った。。。
「友蔵さん あなたは昭和38年より 地区老人会の会長をつとめ、世のため人の為貢献され、こんにち老人会があるのもあなたのおかげ・・・」
弔辞の内容すべてが老人会のことだった《世のため人の為》っていうところが、弔辞を読む人と祖父の《親しくなさ》を如実に表現していると思った。
家へと戻り バアさんが 「わたしあの弔辞には感激しちゃった」と お約束 棒のようにつぶやいた。
ジィさんの戒名の称号は居士であった。死ぬと無条件に仏の弟子になれるというこの世のシステムには改めて驚かされる。
もしジィさんか本当に仏の弟子になってしまったら、インチキはするは酒は飲むわで一日で破門であろう。
それなのに”居士”だ。私が、「立派な戒名もらってヨカッタねえ」と母に言うと、彼女は、
「あたしゃ、生きているうちにいい目に逢えりゃ、居士でもドジでもなんでもいいよ」と言いながら、葬式まんじゅうをパクパク食べ始めた。
位牌が少し傾いたような気がした。
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葬儀 読経の際の おこちゃまによる暴走 わたいにも経験がございましてネ・・・
まだ丹後半島の時代 近所の葬儀会場で、幼いからまだ、葬儀の厳粛性も 和尚さんのお経の有難みも てんで判ってませんからネ、
最前列 和尚さんのスグ真後ろに チョコンと腰掛けたホトケさんのひ孫にあたる まだ幼い女のコが・・・和尚さん叩きます ポクポクポク・・・の 木魚の「リズムに合わせて」
『ここかとおもえば まぁ~たまたあちらぁ うわきなひとぉねぇ~♪』こ…こらっ!!木魚をビートBOXにすナっ!!
で この時点で、列席者の半数は ピクピク!カラダ上下に揺すって耐えているって構図。もはや泣いてルひとなどは居らず…葬式の厳粛性はカンペキに吹っ飛んでしまいました うむうむ。。。
マジで腹筋崩壊3秒前でスたわなぁ・・・
…ぶっちゃけ ココまで 突き放したドライタッチな 一見ハードボイルド風 表現のエッセイ、
スゲぇのは そのタッチの目的は 恰好つけでは無く、【大爆笑の前ふり】なんだから まさに驚きで!@@;
突然の訃報があり、我々は その亡骸に遭遇した際『こんないいヒトが・・・早過ぎます』ってナ事述べます。
でもそれは…【この世を暮らす上での 慣用句】ぶっちゃけ「お約束の一言」でス ええ。
この「メルヘン爺」の ナンともいえない、ダークだけど マジで 稀有な「面白さ」は、
「ナミダにくれる」は、葬祭における『付属サービスの一環』かも
1人の人間って生き物が入滅したに過ぎない、驚くべきことでもナンでもない自然の出来事に、
やれ 葬儀屋だ 棺桶だ 死に化粧だ お寺だって、ドコの家でも ほぼほぼ似通った「大騒ぎ」・・・それの【 虚構性 】をピックUPして嘲笑っているって気がするのです ええ。
「葬式とかってなると、もぉおっかしくて 笑いがこみ上げとまらなくなる」って有名なのは 漫画家の蛭子サンでありますが。
マジでもって、ホント…「葬式」ってのは、考えれば考える程、【爆笑の宝庫】でス ええ。
「喜怒哀楽」、ヒトが暮らし 生きていくうえで味わう 喜んだり 泣いたり 悲しんだりって、
さくらサンはたぶん「その喜怒哀楽、なにが上で なにが下かってのはないんだ。すべてが同列」って考えていたのかも知れませんネ はい。
我がチームのショーゴ君の「喜怒哀楽」・・・
(ぶっちゃけ 変わンねぇぇぇ~~っ!)
クチ当たりの良い 毒々しさを排した(女性)エッセイが主流の昨今、これじゃ~本も売れなくなる訳だってナマイキですが思います。
あらためまして、さくら先生の ご冥福をお祈りいたします
タマにゃあ この手の 毒々しさを覚悟の上で 思いっきりハラ下してデトックスって♪ さよう…出版文化とは お手軽サプリメントではナイのでございますだお はい~~
みなちゃま よいご連休を ♪